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東京地方裁判所 昭和44年(ワ)4306号 判決

原告 古谷千代子

被告 中尾忍

主文

一  被告は原告に対し金八〇六万九、六〇〇円およびこれに対する昭和四四年五月二一日から支払ずみまで年五分の金員を支払え。

二  原告その余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを三分し、その一を原告の、その余を被告の各負担とする。

四  この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。

事実

第一申立

原告訴訟代理人は「被告は原告に対し金一五二六万円およびこれに対する昭和四四年五月二一日から支払ずみにいたるまで年五分の金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決ならびに仮執行の宣言を求め、被告訴訟代理人は「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求めた。

第二主張

一  請求の原因

(一)  原告は昭和四三年二月三日ころ、腹部激痛の為、訴外浅見医師の往診による鎮痛薬の注射治療を受けたが、症状好転せず、同月四日被告の経営する中尾医院に入院した。

被告は原告の症状を胆のう炎と診断し、注射、点滴、投薬等の治療を続けたが、原告は、右入院の二、三日後から黄疸症状があらわれ、食欲も減退し同年三月はじめから発熱を伴い回復の徴候があらわれなかつた。

被告は同年三月七日原告に胆のう結石があるものと診断してその摘出手術を行うこととし、同日午後七時ころより、同医院手術室において第一助手として訴外医師小野田仰、麻酔担当医として医師黒田晃司、看護婦として望月準看護婦、井上準看護婦をそれぞれ自己の補助として胆石摘出手術(以下、本件手術という)をおこなつた。しかして、本件手術において原告に対し閉鎖循環式麻酔器を使用して、笑気ガスによる麻酔(以下、本件麻酔という)が施されたものであるところ右手術は約四時間で終了したが、原告は手術終了後も意識を回復せず、その後同月一〇日より同月一二日ころまでわずかの意識の回復があつたのみで同日以後はまつたく意識不明となり、かつしばしば四肢に強度のけいれんを起す状態が続いたので、原告の家族は、慶応病院に転院させたい旨を被告に申入れ、同月一五日漸く被告の同意を得て同病院に転院、治療を受け、その後伊豆韮山病院に三ケ月間入院して同年九月二二日退院したがその後も慶応病院リハビリテーシヨンセンターに通院、治療を受けている。そうして、原告は現在、強度の言語構音障害、歩行障害があり、会話もほとんど不能であり、かつ、杖を使用してかろうじて歩行できる状態であり、右障害はいずれも固定し、全治不能である。

(二)  右の症状は医学上「低酸素血症後脳症」と診断されており、血液中の酸素の不足から脳実質部、特に錐体外路系に障害が生じたための後遺症であり、前記手術に際し原告に施された本件麻酔の使用上の過誤または挿管チユーブの抜管時の前後の処置を誤つたことによる。

1 本件麻酔は、閉鎖循環式方式によるものであつて、麻酔を受けている患者が強制的に吸入させられる笑気ガスと酸素との混合気体のみから必要な酸素の供給を受けるものであるから、これを施すにあたつては、手術担当医師において常に適当量の酸素が供給されるよう万全の注意をなすべきであるにもかかわらず、被告はこれを怠り本件麻酔に際し酸素の供給量の不足を生じさせ、その結果原告に対し前記障害を惹起させた。

2 仮に、本件麻酔に際して酸素の供給量に不足がなかつたとしても、被告は気管内挿管チユーブの抜管の時期を誤り、かつ抜管後の措置も適切を欠いた。すなわち、笑気ガスによる麻酔においては、施術の停止後、医師は、患者の自主呼吸が可能かどうかを確かめ、患者が完全に覚醒し、意識を回復したことを確認したうえで抜管すべきであり、若し患者の自主呼吸が十分におこなわれないような情況のときには、直ちに酸素吸入の必要な処置をとらなければならない。しかるに、被告は、右注意義務を怠り、麻酔を停止した後数一〇分を経過しても原告が覚醒していないのに、漫然と抜管し、しかも覚醒ないし意識の回復に至るまでみとどけることなくこれを放置してしまい、なんらの適切な処置をとらなかつた。

(三)  本件麻酔を施すにあたり被告は、訴外黒田晃司医師にこれを担当させたのであつたが、仮に右麻酔の施術につき被告が関与することなく、右訴外医師に専任させたものであるとしても、被告の責任はまぬがれない。

1 麻酔を伴う外科的手術をおこなう医師は、麻酔が正常かつ適切におこなわれているかどうかにつき万全の注意を払い、麻酔医の処置を監督すべき義務があり、麻酔医の過失により患者につき生じた障害は、手術全般の担当医師の右注意義務のかい怠にほかならない。

2 仮に麻酔管理上の全責任が麻酔医にあり、主治医には、第一次的責任がないとしても手術を行う主治医は麻酔医に対し麻酔の管理を委託し(民法上の準委任)、両者間には、使用関係が存するものであるから麻酔医のなした過失行為につき使用者である主治医は民法第七一五条により使用者責任がある。

(四)  従つて、原告の前記後遺症は、本件麻酔の過誤により生じたものであり、被告はこれにつき過失の責任、若しくは民法第七一五条の使用者責任をまぬがれないのであつて、これにより原告の被つた損害の賠償義務がある。

(五)  損害の額について。

1 逸失利益

原告は、当年四七才の女性で、昭和二九年から東京生命保険相互会社銀座支店に保険外交員として勤務し、昭和四〇年度から昭和四二年度までの三ケ年間の平均年収は、金一二八万円であつた。しかして、本件麻酔が適切におこなわれたならば、原告は、手術後一ケ月をもつて回復し、少くとも昭和四三年五月以後は就業しえたはずであるのに、前記後遺症により労働能力を完全に喪失し、もはや全治の見込みがない。

イ 本訴提起時までの損害 右一ケ年間の平均年収を基礎とすれば、昭和四三年五月から本訴提起の昭和四四年四月までの一ケ年間の損害は、右金員と同額であるところ、原告は、東京生命から傷病手当として右同期間中一ケ月につき金二万円、合計金四四万円の支給を受けたから、この金員を控除した残額の金八四万円が右期間中の実損である。

ロ 昭和四四年五月以後の分第一〇回生命表によれば原告(当四七才)の平均余命年数は二八・二三年であり、保険外交員という仕事の特質により六〇才まで就業可能であるから今後の稼働年数は一三年である。従つて平均年収一二八万円としての一三年間の総収入の現時の価格をホフマン式計算法(複式)により求めると金一二五四万となるところ、原告は昭和四四年五月から、同年一一月までは一ケ月につき金二万円の割合により傷病手当を前記東京生命から支給されるからその合計金一四万円を控除した残金一、二四二万円が逸失利益となる。

2 慰藉料

原告は、強度の言語障害、歩行障害の後遺症のため死にも勝る精神的苦痛を受けており、これを慰藉するには、金二〇〇万円を相当とする。

(六)  よつて、原告は、右1・2掲記の損害金合計金一、五二六万円およびこれに対する本件不法行為の後の昭和四四年五月二一日(本件訴状送達の日の翌日)から支払ずみまで民法所定の年五分の遅延損害金の支払を求める。

二  被告の認否並びに主張

(一)  請求の原因事実中、原告が昭和四三年二月四日被告の経営する中尾医院に入院し、被告が診察の結果胆のう炎(ただし、急性胆のう炎の疑い)と診断し、原告主張のような治療を加えたが、その後原告主張のような症状(ただし黄疸病状は軽度)があらわれたこと、そうして同年三月七日被告は胆のう結石があるもの(ただし、その疑い)と診断し、同日同医院において被告執刀、第一助手、麻酔担当医、看護婦等はいずれも原告主張のとおりの医師、看護婦の補助のもとに原告について本件手術をおこなつたこと、右手術において原告主張のとおり、閉鎖循環式麻酔器を使用して笑気ガス麻酔が施され、同日右手術を終了したが、同月一三日原告が四肢にけいれん発作を起し、意識もうろう状態となつたため慶応病院(ただし外科)に転院せしめ、原告は、その後同病院および伊豆韮山温泉病院において治療を受けたこと、原告は、被告医院から転院後の右病院において「低酸素血症後脳症」と診断され四肢の不完全麻痺(ただし、軽度)、構語障害のあつたことは認めるが、その余の事実中、原告につき存した右身体上の障害が被告のした本件手術若しくは本件麻酔によるという点を否認する、その余の点はすべて知らない。

(二)  被告の主張

1 本件手術前診察の経過および手術の経過状況

原告は、昭和四三年二月四日、救急車で被告の医院に入院したが、来院時、腹痛、嘔吐ともに著しく、三九度以上の高熱があつたため、鎮痛剤、抗生物質等による内科的治療をしたところ、解熱はしたが、腹痛は去らなかつた。

同年二月六日に至り原告に軽度の黄疸症状の発現がみられ、同月一一日黄疸症状は最高となり、食欲不振、腹痛が継続し、診断の結果急性胆のう炎と診断し内科的治療をしたが、その後も、黄疸は増々強度化し全身濃黄色となり衰弱した。原告は、同月二五日ころから再度発熱し、一般状態が悪化したが、内科的治療により一時解熱したところ、同年三月六日一般状態が再び悪化し、白血球二二、〇〇〇、強度の腹痛と嘔吐を訴え、急性腹膜炎の併発と診断し、同月七日、原告の生命を保持するため、原告の家族の同意を得て、開腹手術をすることになつた。

そうして、被告は、同日午後八時から、術者被告、第一助手訴外小野田仰医師、麻酔担当医同黒田晃司医師、看護婦同望月、井上準看護婦をもつて手術を開始し、術前処置としてオビスコ〇・三ccとビタカン一ccを施し、O型血液二〇〇ccの輸血を二回にわたり三〇分間実施し、更に、リンゲル一〇〇〇ccを別個に点滴静注し、アトロビン〇・五mgを皮下注射した。当時原告の血圧は、一五八-八〇、軽度の左心室肥大あり、体温三八・七度であつた。

しかして、同日午後八時、閉鎖循環式麻酔器(米国マツケーソン会社製)を使用し、酸素単独吸入開始後ラボナール〇・三gを静注し、前麻酔後サクシン四〇mg使用した後挿管し、被告において管が原告の気管に充分挿入されたのを確認した後麻酔担当の黒田医師は、笑気三リットル、酸素一・五リットルの割合で麻酔を開始し、被告は、麻酔の効果が十分発現したのを確認した上で同日午後九時執刀し、手術中原告に対し輸血六〇〇cc、ブラスゲン五〇〇ccを施し、同午後一〇時四五分腹膜閉鎖時に、サクシン二〇mgを使用し、同午後一一時一五分本件手術を終了したが、手術中、原告につき血圧の異常変動、酸素欠乏による血液の黒変、血圧の急上昇、頻脈などは現出せず、一般状態も手術の間を通じて悪化することがなく、同日午後一一時三〇分抜管したが、原告は、自主呼吸をおこなつていた。しかして、本件麻酔において、使用笑気は、四五〇リットル、酸素は、五〇〇リットル入り容器二本(ただし使用量六〇〇リットル)であり、手術中の酸素ボンベ交換も補助ボンベを使用したため、ほとんど中断なく切り替えられ、交換中自呼吸の停止その他の変化はなかつた。

ところが、抜管後、正常の場合にはまもなく患者の意識は回復するものであるが、原告の意識の回復が遅く、酸素吸入、チトクロームC等の使用により翌八日朝意識を回復したが、もうろう状態であつて、全身強直、言語障害等があり、その後、一般状態は回復にむかい、一時解熱し、流動食をとるまでになつたが、同年三月一四日突然全身のけいれん発作を起し、再び意識もうろう状態となつたため、即日慶応病院に転院させたのであつたが、その後右大学病院から原告の麻酔、言語障害はともに軽くなつた旨の回答があり、伊豆韮山温泉病院からは、治療の結果回復はしたが、四肢に軽度の不完全麻痺が残るとの連絡があつた。

2 本件後遺症が、仮に本件手術並びに麻酔により生じた低酸素血症後脳症であるとすれば、これは、本件麻酔に過誤があつたことによるものでなく、既に原告の個体が低酸素血症脳症の準備状態にあつたため、正常な麻酔の実施にもかかわらず、低酸素血症後脳症になつたものであるか、心臓疾患のある場合に、たまたま手術に伴つて起る脳血管の塞栓による脳塞栓によるものであつて、不可抗力による発病である。

即ち、本件手術前における原告は、最低血圧が高く高血圧症であり脳動脈硬化症の可能性もあり、強度の黄疸(白血球二二、〇〇〇)症状を呈していたのであつて、一般状態は極めて悪く強度の黄疸によつて脳実質はもちろん、その他の臓器も著しくビルリビンにより汚染され、かつ肝機能も強度に障害を受けている状態であつたため、脳細胞そのものが酸素を充分に受けられないほど機能が低下していたのであり、いわば、低酸素血症脳症の準備状態にあつたのである。しかも、原告は重症の腹膜炎を併発しており、手術の時期を遅らせれば、当然に死に至る状態であつたから、手術を延期することはできなかつた。

若し、麻酔中に酸素欠乏が起つたとすれば、血圧の急上昇、頻脈等が現われ、また手術中に患者の血液が黒くなり一般状態も悪くなるため酸素の欠乏に気付くはずであるが、本件手術中にかような状況は原告にあらわれなかつた。

手術後一時意識の回復がみられ、その後突然意識不明となつたことは、医学的にみて全身麻酔と無関係に二次的に何らかの原因によつて脳塞栓が起り、脳軟化の症状を起したものと考えられる。時には、手術に伴つておこる脳血管の塞栓による閉塞のため、低酸素脳症を生起せしめることもあるのである。

麻酔器は米国マツケーソン会社製であり、同器械の弁その他に故障はまつたく認められず、本件手術に使用した後これを使用しているが同器には何の障害も発生していない。麻酔担当の訴外黒田晃司医師も経験豊かなベテラン医師である。

第三証拠〈省略〉

理由

一  原告が昭和四三年二月四日被告経営の中尾医院に入院し、被告の診察の結果胆のう炎の疑いのもとに注射、点滴、投薬等の治療を受けたが黄疸症状が好転せず回復の徴候がみられなかつたこと、そして、同年三月七日被告は、原告において胆のう結石の存するとの疑いのもとに同医院において被告執刀、第一助手医師小野田仰、麻酔担当医黒田晃司および望月、井上両準看護婦の補助のもとに原告につき本件胆石摘出手術を施したこと、右手術において原告に対し閉鎖循環式麻酔器を使用して本件麻酔が用いられ、同日右手術は終了したが、右手術後原告は四肢にけいれん発作を起し、意識もうろう状態に陥つたこと、そうして原告は被告の右医院から慶応病院に転院し、更に伊豆韮山温泉病院において治療を受けたが、右各病院において低酸素血症後脳症と診断され、現に四肢の不完全麻痺、構語障害(以下右障害を本件後遺症という。)の存することは、当事者間に争いがない。

二  原告は、原告の右症状は、被告が右手術に際し用いた本件麻酔の使用上の過誤若しくは気管内挿管チユーブの抜管時前後の処置を誤つたことによると主張するので、右後遺症およびその症状の発生原因たる低酸素血症後脳症が本件麻酔の使用上の過誤によるものであるか否かにつき判断する。

(一)  成立に争いのない乙第一号証の一ないし六、証人二関美千代、黒田晃司の各証言、原、被告各本人尋問の結果を綜合すれば、本件手術の経過およびその直後から原告にあらわれた症状は、次のとおりであつたことが認められる。

1  被告は、本件手術前の準備として同年三月七日午後六時および午後六時半の二回にわけて、原告に対し麻薬であるオビスコ〇・三ccにビタカン一ccを混合して注射し、かつ気管を拡張するためアクロピリン〇・五mgを皮下注射し、更に二〇〇ccの輸血をし、リンゲル一、〇〇〇ccを点滴静注した。

2  同日午後八時ラボナール〇・二gサクシン四〇mgを静脈注射したうえ閉鎖式循環麻酔器(笑気ガスと酸素とを混合して被麻酔体に対しこれを強制的に供給する装置。本件では米国マツケーソン社製が使用され、その構造は、別紙図面のとおり)の気管内挿入チユーブを原告の気管に挿入し、同日午後八時三〇分ころから笑気ガス毎分三リツトル、酸素毎分一・五リツトルの割合でこれらを混合した気体を送つて麻酔し、午後九時被告の執刀のもとに手術を開始した。

右開腹の結果、原告は胆管内に四個の結石が存し強度の胆のう炎におかされており、黄疸は右結石が原因であり、かつ腹膜炎を併発していたことが明らかとなつたので、被告は、右結石および、胆のうを摘出した。

そうして、同日午後一〇時四〇分頃サクシン二〇mgを使用し、その直後に笑気ガスの供給を断つて、それ以後は酸素だけを供給し、同日午後一〇時四五分腹膜を閉鎖し、手術を終了したが、酸素の供給は、同日午後一一時三〇分まで続けられ、午後一一時三〇分に至り前記チユーブを抜管した。

3  ところが、原告は右抜管時においても意識もうろうの状態であつて、前記医院二階の病室に運ばれた後も覚醒せず、酸素吸入を施したにもかかわらず翌三月八日および同月九日にももうろう状態が続き、更に全身硬直、言語障害の症状があらわれ、被告は、チトクロームC等の脳細胞を復活させる注射をおこなつたが、原告は、その翌日の同月一〇日ころ一時一般状態が回復したものの同月一三日頃突然全身にけいれん発作をおこして再び意識もうろう状態に陥つたため同年三月一五日原告の家族の申出もあつたので被告は、原告を慶応病院に転院せしめた。

以上の事実が認められ、右認定を妨げるに足りる証拠はない。

(二)  証人秋月正史、加藤正弘の各証言によれば、低酸素血症後脳症とは、酸素欠乏により脳実質が広範囲にわたり障害を受けることにより生ずる症状であることが認められるところ本件麻酔において用いられた閉鎖式循環麻酔器は、笑気ガスボンベの圧力と酸素ボンベの圧力をそれぞれ利用して送管を通じて右各気体を混合しながら強制的にこれを被麻酔体に供給することにより麻酔の効果を生ぜしめるものであつて、被麻酔体は強制的に供給せしめられる右各気体以外の外気を呼吸することを得ないことは、別紙図面掲記の右麻酔器の構造自体および弁論の全趣旨に徴して明らかである。しかして、証人二関美千代の証言および原告本人尋問の結果をあわせれば、原告は、本件手術の直前、黄疸症状があつたけれども意識は正常であつて、人手を借りずに用を足すほどの運動機能もあつたことが認められるのに、前記認定事実によれば、本件手術の終了直後からひき続き意識もうろう状態が継続し、本件手術の翌々日の同月九日に至つても覚醒しなかつたのであつて、これらの事情によれば、原告について惹起した低酸素血症後脳症は、本件手術に際して用いられた本件麻酔の使用により生じたものであろうことは容易に推認することができる。

被告は、原告には高血圧症があり、強度の黄疸により脳実質等がビルビリンにより汚染され、肝機能にも強度の障害があつたため脳細胞が酸素の供給を十分に受け入れられない状態にあつた。と主張し、右低酸素血症後脳症の惹起が本件麻酔の使用により生じたものでないとするのであるが、成立に争いのない乙第一号証の五、同号証の六によれば、原告は本件手術前において普通人に比して高血圧の症状を呈していたが強度の高血圧症というにあたらないとみるべきものであるのみならず、鑑定人山村秀夫の鑑定の結果に徴しても、高血圧症の存することが脳に対する酸素の供給を阻害する原因となりうることを認めることができず、また、証人秋月正史の証言および被告本人尋問の結果によれば、本件手術前原告につき肝機能の障害を認めるべき形跡の存しないことが認められる。しかして、右鑑定の結果によれば、黄疸により脳のビルビリンによる汚染のため脳細胞が酸素を十分に受け入れられないとの点は、新生児の核黄疸においてのみ認められうることがあるのみで、成人に関してはその実例の存しないことが認められるのであつて、被告の上掲主張の各点はいずれも採用するに足りないものといわなければならない。

そうして、同鑑定の結果によれば、その他に本件低酸素血症後脳症の惹起すべき原因は、原告につきすべて否定し得ることが認められる。

(三)  以上のように原告につき惹起した低酸素血症後脳症は本件麻酔の使用により生じたものであることは、高度の蓋然性をもつて推認することができるものであるところ本件麻酔において使用された麻酔器が前記のように笑気ガスと酸素とを混合した気体を強制的に被麻酔体に供給するものとする構造上の特質からみて麻酔中に酸素欠乏を生ぜしめたのは、結局笑気ガスに混入すべき酸素の供給を酸素につき低下若しくは皆無ならしめたことによるものと認めるほかはない。しかして、鑑定人山村秀夫の鑑定の結果によれば、かような酸素欠乏をきたす場合として、麻酔中に酸素ボンベ中の酸素が消費されて無くなり患者が笑気のみを吸入してしまうことがあり、この状態が十分間以上継続すれば低酸素血症後脳症を惹起するとしていることは、右推認を裏づけるに足りる。

証人黒田晃司の証言および被告本人尋問の結果によれば、麻酔中に右事態が生ずれば、患者の血圧が上昇し、かつ血液が黒変または暗赤色となることにより容易にこれに気づくことができるはずであるのに、本件手術を通じてこのことがあらわれなかつた旨供述するが、血圧の変化の点については、本件手術において血圧の推移を示す唯一の記録である成立に争いのない乙第一号証の五に被告本人尋問の結果をあわせれば、本件手術中における午後一〇時以後麻酔挿入管の抜管時の午後一一時三〇分までの血圧の変化の記録がまつたくなされていないのであり、血液の色彩の変化についても、右鑑定の結果によれば、手術者が手術に熱中するためこれを見過すことのあることが認められるのであつて、上記証言および本人尋問の結果は、その他にこれを裏づけるべき資料の存しない以上にわかに採用することができない。

してみれば、本件麻酔において前記閉鎖式循環麻酔器の使用に際してその管理を誤つて原告に対し酸素の供給を低下若しくは皆無ならしめ、これにより原告に低酸素血症後脳症を惹起せしめたものと認めるのが相当であり、本件全証拠を通じてみてもこの認定をくつがえすに足りる証拠はない。

三  次に、証人黒田晃司の証言および被告本人尋問の結果に弁論の全趣旨をあわせれば、被告は、本件手術に際し麻酔担当医として医師黒田晃司に本件麻酔の施行と管理を依頼し、これにより黒田医師が本件手術を通じて本件麻酔の管理全般を担当したことが認められ、右認定に反する証拠はなく、本件手術のような複雑な外科手術においては麻酔の管理を他の医師に依頼することはやむをえないことであつて、患者である原告においても暗黙にこれを承諾していたとみるべきである。しかして、右認定事実によれば、前記のような本件麻酔の使用上の過誤は、黒田医師の麻酔管理についての過失によるものであることが明らかである。

ところで、医師が外科手術に際し麻酔担当医を依頼し、麻酔の管理をその担当医にゆだねる(民法上の準委任)のは、自己が手術に専従しうるためのものであつて、特段の事情の存しない限り麻酔は外科手術の補助的手段というべく、麻酔担当医は手術につきすべての責任をおう医師の指揮のもとにその意思に従い患者に対し麻酔をおこなうものと認めるべきものであつて、このことは、被告本人尋問の結果に徴してもこれをうかがうに足りる。

従つて、被告は民法第七一五条にいわゆる使用者として同条にもとづき被用者たる黒田医師の前記不法行為により原告の被つた損害を賠償すべき義務あるものといわなければならない。

四  進んで、原告の損害の数額につき判断する。

(一)  逸失利益

成立に争いのない甲第一号証に証人加藤正弘の証言および原告本人尋問の結果をあわせれば、原告は前記脳症により慶応病院、伊豆韮山温泉病院において各種の治療を受けたけれども現在においても運動機能の協調性が悪く、歩行困難であり、かつ知覚障害が存し、殊に構音障害が顕著であつて、これらは固定して回復の見込みがなく、将来社会復帰は望めないことが認められ、右認定を妨げるに足りる証拠はないから原告はその労働能力を完全に喪失したものと認めることができる。

1  弁論の全趣旨により真正に成立したものと認める甲第三号証の一ないし三に原告本人尋問の結果をあわせれば、原告は本訴提起時(昭和四四年四月)において満四七才の女性であり、被告の前記医院に入院するまで東京生命保険相互会社銀座支社に保険外交員として勤務し、右入院前三ケ年間の年間平均給料として一ケ年につき金一二八万円を得ていたことが認められ、これに反する証拠はない。従つて、原告は、前記不法行為による労働能力の喪失の結果、右不法行為がなかつたならば従前の職場に就労し得たとみるべき昭和四三年五月から本訴提起時の昭和四四年四月まで(一二ケ月)、右年収から、労働能力の再生産のために要する必要経費として生活費の二分の一にあたる右収入の半額を控除した残額の金六四万円の得べかりし利益を喪失したこととなる。そうして、原告本人尋問の結果に弁論の全趣旨をあわせれば、原告は、右会社から傷病手当として、昭和四三年五月から昭和四四年四月まで合計金四四万円の給付を受けたことが認められるから、右金員からこれを控除した残金二〇万円が右期間中の残存逸失利益となる。

2  昭和四四年五月以後の分について。原告の前掲年令に徴すれば、原告の本訴提起時における平均余命年数は二四・九〇年(第一一回完全生命表)であり、原告の前掲職種によれば、原告は満六〇才に達するまで前記職場において就労しえたものと認めるべきであるからその残存稼働年数は一三年であり、前掲年間収入から生活費としてその半額を控除した前掲金員を基礎としてライプニッツ方式により右残存稼働年間における得べかりし利益の現在価額を算定すれば、次のとおりの計算式により合計金六〇〇万九、六〇〇円となることが計算上明らかである。

純収益1ケ年につき64万円×年5分、期数13の複利年金現価率9.39

従つて、原告は、右期間中右金員と同額の得べかりし利益を喪失したこととなるが、原告本人尋問の結果および弁論の全趣旨によれば、原告は、前同様傷害手当として前記会社から、昭和四四年五月から同年一一月まで合計金一四万円の給付を受けたことが認められるから右逸失利益からこれを控除した残金五八六万九、六〇〇円が残存逸失利益となる。

(二)  慰藉料 前記認定のように、原告は前記のような身体の障害を受け、その回復はほとんど不能であつて、原告の被つた精神的苦痛は大なるものがあるというべく、これを慰藉するには、金二〇〇万円をもつてするのが相当と認める。

(三)  以上のように、原告は本件不法行為により(一)の1・2および(二)の金員合計金八〇六万九、六〇〇円の損害を被つたと認めるべきであり、被告は、右金員に不法行為の後の昭和四四年五月二一日から支払ずみまで年五分の遅延損害金を附加して原告に支払うべき義務あるものといわなければならない。

五  以上説示のとおり、原告の本訴請求は、右限度においてその理由があり、これを認容すべきであるが、その余は、理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九二条を適用して、これを三分し、その一を原告の負担、その余を被告の負担とし、仮執行の宣言につき同法第一九六条第一項を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 間中彦次 佐藤安弘 中野久利)

別紙 図面〈省略〉

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